■ 1976年(昭和51年) 7月2日生まれ。
1976年(昭和51年)
藤井家の3人兄弟の長男として生まれる。
兄弟は、2つ下の弟と4つ下の妹。
3歳までは、とてもカワイかったらしく、
母親には、
「あんたは、3歳の時がピークだったわ」
と今になっても言われます・・・。
また、わたしは小さいころから
兄弟思いで、弟や妹の面倒を
良く見ていたそうです。
■ 小学校時代
遊び場は、自宅の前にある田んぼでした。
近所の男友達と、ある日は野球、ある日はサッカーと
不規則に変化する田んぼをグランド変わりに
日が暮れるまで、泥で真っ黒になりながら遊んでいました。
■ 中・高学校時代
学校の中では比較的ラクそう?
という理由で、バスケットボール部に入部。
顧問の先生も、それほど熱心ではなく
1年生の時は確かに、それほどではなかったのですが、
2年生になった時、隣の中学の野球部を
神奈川の西部地区では最強に育て上げたという教師が
転勤して来て、バスケットボール部の顧問に・・。
その顧問の先生の元、
とにかく走らされました・・・。
ご飯が食べれなくなるほど
ひたすら走っていました。
その結果、大会ではそこそこの結果を残す。
人生で初めて「気を失う」という経験をする。
とても、恥ずかしい話なのですが、
英語の授業中に、急にお腹が痛くなり
トイレに駆け込みたくなってしまったのです。
しかし、もう少しで授業が終わる、
「そうだ、あと5分我慢すればトイレに行けるんだ」
「大丈夫、お腹なんか痛くない、痛くない」
「早く終わってくれ!あと3分だ・・・」
と自分に言い聞かせて懸命に我慢していたのですが、
その我慢が限界に達して、
「バタン・・・」と気を失って椅子から転げ落ちました・・。
友達に叩かれて、目を覚まして正気に戻った僕は
最悪の事態を想像していましたが、
幸いなことに漏らさずに済みました・・・。
このことから
「トイレは絶対に我慢しない」
という教訓は今も守っております。
(決して女装が趣味な訳ではございません・・・)
■ 大学時代
今考えるととても勿体ないのですが、
大学中は、ほとんど勉強をしていませんでした・・・
テストでは赤点連発で、再試験ばかり受けていました・・・
また、部活は茶道部に所属しており、
お茶を通して人をもてなす心を学びました。
鍼灸マッサージ業も一種のサービス業なので
その時に学んだ事が、今の仕事に繋がっているのを
最近になって感じております。
■ 大学生活4年間を経て社会人に ・・・
今でこそ、国家資格である鍼灸マッサージの資格を取得して、
治療院を開業して日々楽しい生活を送っている私ですが、
実は2000年11月まではとってもしがないサラリーマンをしておりました。
大学をギリギリの成績で卒業して、いわゆるIT企業と呼ばれる会社に入社したのですが、
そこでは残業・深夜作業が当たり前の、非常にきつい仕事をしていました。
休みも十分取れるとはいえず、自分の時間もありません。
仕事の内容といえば、毎日同じことの繰り返し。
仕事をしてるぞ!という充実感とは無縁の世界でした。
単に生活費を稼ぐためだけに働いているようなものです。
つまり、「生きていくだけで精一杯」の状態でした。
私が数年続けたサラリーマン生活、それはものすごくつらいものでした。
朝5:30に目を覚まし、疲れの抜けない体を
引きずりながら7時過ぎには満員電車に乗り込みます。
通勤時間は二時間半かかり、ヘトヘトになって
やっとのことで到着して仕事が始まるわけですが、
会社の定時の17:30には仕事は終わるはずもなく
毎日毎日の残業で23時過ぎまでなんとかやり過ごすと、
これまた帰りも満員電車。自宅に帰るのは深夜0:30過ぎ。
要するに、通勤時間を含めて19時間以上も、
毎日毎日会社に拘束されていたのです。
1ヶ月あたり実に450時間以上。
そして毎月450時間も会社に拘束されて、
もらえる給料は手取りで20万円未満・・・。
時給に換算すると実に700円もないんです。
バイトをやっていたほうがよかったかも?と思うこともありました。
平成14年度の源泉徴収表をみると、
手取り給料はとうとう300万円を切ってしまいました
(信じられないかもしれませんが実話です)。
当時、書店で「年収300万円時代を生き抜く」という本が
ベストセラーになっているのを見て
「あぁ、僕も少ない年収でなんとか生き抜かないとだめなんだなぁ・・・」
と、なんともいえない気持ちになったのをよく覚えています。
私は将来のことを考えると、泣きそうになりました。
・年功序列が崩れた現在では60歳まで
働けるという前提さえも崩れかかっている状態。
・いつリストラになってもおかしくない状態。
このような過酷な状況の中で、なんとか
会社に頼らずにも生きていけるだけの技術と収入を得たい!そう思うのは当然です。
身に迫ってくる危機の中で私なりに考え、
「このままサラリーマンを続けていては、将来が危険!」と
悟り、独立・起業を夢見るが、いったい何をしていいのか
何をやりたいのかすら見つからず、悶々とした日々を送っていました。
■ あの「交通事故」がきっかけで・・・
そんな時にあの事件は起こりました。
忘れもしない、2000年3月21日(春分の日)。
充実感とは無縁の職場で働いていたので
仕事においての楽しみは当然見つけられませんでした。
そんな当時、唯一楽しんだのが「スノーボード」でした。
週末に仕事がないときはほぼ毎週近くのスキー場に足を運んでいました。
(こんな風に飛べたらいいなぁ・・って思ってましたが全然ダメでした(>_<))
そして、その日(3/21)は職場の友達と
群馬県の谷川岳に徹夜明けでスノボ行きました。
祝日でしたので、道路も混んでいて
小田原からですと車で6〜7時間かかりました。
思い切りスノーボードを楽しんでクタクタになったあとの帰り道、
3車線の高速道路、関越自動車道路の藤岡J付近の上り路線。
前にはオデッセイ(乗用車)が、私の車の後ろに後続車はいなかった・・・と思う。
前方の車に続いて、30k前後で走っていたと思う。
思いっきり滑ったあとに疲れきったカラダで車を運転していたので
ウトウトしてしまったのです・・・
そして、気づいたら周りの友達の「きゃーーー!」っていう悲鳴と目の前に赤いオデッセイの背中が
そびえ立っていました。
急ブレーキ!!!。。。。。。。。。。。。。。。(((((*><)キキキキ
と思ったのですが
とっさに、
アクセル全開で踏み込んでしまいました!(((*><)
次の瞬間・・・・・
ドカ〜〜ン!ガシャ〜〜!!!
すごい衝撃でした。何が起こったのかわかりませんでした。
前のオデッセイの運転手が飛び降りてきて
「ボケぇぇぇぇぇぇ〜〜!何しとるんじゃぁぁぁぁあああ〜〜!」
と激高していました!
エンジン部から変な煙が上がってるわ、後部座席では泣いてるわで周囲で起こったことを把握するまでしばらく時間がかかりました。
その後しばらくしてレッカー車と警察が来て呆然としながら事情聴取を受けました。
レッカー車で最寄の駅まで送ってもらい小田原まで電車で帰りました。
その電車の中でいろいろなことを考えました。
「高速道路で事故を起こしたのになんで無事なんだ?」
「さっきの事故、死んでいてもおかしくなかったんじゃないか?」
「なんで生かされてるのだろう?このまま死んでいいのか?」
「何のための人生なんだ?」
「このままサラリーマンをやっていて良いのか?」
「自分はこの先、どんな人生を歩めばよいのだろう?」
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私はその間、いろいろなことを考えました。健康のこと、人生の意味、などについて真剣に考えました。
普通に大学に進学し、普通に会社に就職したのですが、心の中では「いつもこれでいいのだろうか?」と感じていました。
事故から数日後、
めまいや頭痛、腕のシビレ、肩の過緊張といった事故の後遺症や
PCを使った長時間の仕事の疲れから
首から肩にかけてなんともいえないけだるさを感じていました。
整形外科で見てもらったのですが、頚のけん引治療だけでなかなか症状はよくなりませんでした。
整形外科には2回通っただけで見切りをつけました。
痛みがあれば早く治したいという気持ちが働き、何とかしてこの痛みから
逃れたいという一心でマッサージ治療を受けました。
しばらく通ったらすっかり良くなり晴れやかな気持ちになりました。
毎回、毎回マッサージの終了後には何ともいえない爽快感が得られました。
また、マッサージと並行して、自主的に行ったのが自彊術です。
自彊術は31の動作で全身の調子を整える治療体操ですが、
交通事故によるムチウチのような症状に対しては、
特に自彊術の3動〜10動は首の痛みに抜群な効果をもたらしてくれました。
3ヶ月くらい継続して行った結果として、
今まで痛かったところが気にならないほどになりました。
職場の先輩や同期も私と同じように肩こり腰痛に悩まされている方が大勢居ました。
「もしかしたら、あの事故がカラダや健康といった分野に導いているのでは?!」
と思い、本屋さんや図書館に行きマッサージ、鍼灸、整体、カイロなどについて
徹底的に調べ上げました。
そして、鍼灸マッサージ師になるには3年間養成学校で学んで、更に国家試験に
受からなければならないということをはじめて知りました。
それを知った翌日には部長に辞表を出していました
■紆余曲折を経て治療家に・・・
そうして紆余曲折を経て、現在の仕事にたどり着きました。
今となってみれば「あの事故」が導いてくれたように思います。
あの事故で生きていたことをだれもが
「本当に奇跡だよ」「生かされたんだよ」「運が強いんだよ」と言います。
私もそう思います。
これを機に私は、「生かされているんだ」ということを真剣に考えるようになりました。
模索しながらも健康について勉強を続けました。
哲学書など人生に関する本もいろいろと読みました。
人間だれしも生きていると、色々な局面に遭遇します。
ある時は自信をなくしたり、物事がうまく行かなくて悩んだり、
落ち込んだり怒ったりと…辛い思いをすることがあります。
死ぬまでの間、いやでも時として、こういった思いと向かい合っていかなければならいのです。
これらの思いを避けて通ることはできないのです。
こんな辛い思いに遭遇した時どうするか?
こんな辛い思いから、早く抜け出すにはどうすればよいか?
こんな時、私はこの言葉を思い出すのです。
「一度失った命、そう思えば何でもできる」
実践したいと思います。
これから、私とスタッフ共々、
訪問マッサージや訪問鍼灸を通して
自分の人生を表現してゆきたいと考えています。
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略歴
厚生労働大臣認定 鍼灸・マッサージ指圧師
神奈川 小田原出身
神奈川県立小田原高校卒
成蹊大学工学部電気電子卒
東京医療福祉専門学校卒
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